空気など読むな
21個目。
「空気など読むな」
人気美少女ゲームシリーズの外伝「アイドルマスターDS」の登場人物、武田蒼一氏の台詞です。
KY(空気読めない)なんて言葉が少し前に流行ったように、
現代日本では(特に若者の間では)、「空気」というものが非常に重要視されています。
要するに「周りに合わせる」ことを強制する雰囲気がある、ということでしょう。
実際のところ、周囲の状況を見てそれに合わせた言動をする、という行為自体は、
物事を円滑に進めるためには有効な手段であると考えられます。
周囲との衝突がなく、ロスが発生することもない、ということは、
機能性という意味では極めて優れているとさえ言えます。
しかし、その「空気」を読み、行動するのは機械ではありません。人間です。
当たり前のことですが、全ての人が同じ価値観を持って生きているわけではありません。
全く同じ行動をするにしても、それをどう思うか、どう感じるか、というものは
人によりけりです。
ですが「空気を読む」という行為は、その「価値観」の差異を無視することになります。
個人の価値観よりも全体の和を重要視する、ということです。
この事のメリットは、前述したとおり「機能性」に他なりません。
物事が円滑に行われるのと同時に、表面上の人間関係の構築に役立つのです。
逆にデメリットは、「価値観の損傷」です。
無理に周囲に合わせると言う行為、これは少なからず個人の内面に損傷を与えます。
現実に、新聞の投書など様々なメディアから、(主に)中高生の『「空気を読む」事が辛い』
という意見を見ることが出来ます。
メリットとデメリットを見比べたうえで、どちらをとるのかを決めるのは、当然自分です。
「なぜベストを尽くさないのか」で述べたとおり、「快」と「不快」の計算を行った上で、
それを判断するはずなのです。
では、その判断の結果はいかなるものなのでしょうか。
KYという言葉が流行った背景からは、『「空気を読むべき」という「空気」』が、
「個人の価値観の保護」を上回っている、という現状が読み取れます。
つまり、「空気を読む」ことがマジョリティとなっているのです。
マジョリティは正義です。「負け犬は正義を語れない」で述べました。
しかし、「正義」が必ずしも、個人にとって「快」であるとは限りません。
マジョリティであることは楽かもしれません。
しかしその代償に、価値観において「不快」を感じてしまうことがあります。
そういった「不快」を感じながらもマジョリティに頭を垂れている方、
それでいいのでしょうか。もう一度考え直してみてもいいと私は思います。
私はマイノリティであっても「己の正義」を貫くと決めています。
その立場から、悩める方達に私は言いたい。
「空気など読むな」


「空気など読むな」
人気美少女ゲームシリーズの外伝「アイドルマスターDS」の登場人物、武田蒼一氏の台詞です。
KY(空気読めない)なんて言葉が少し前に流行ったように、
現代日本では(特に若者の間では)、「空気」というものが非常に重要視されています。
要するに「周りに合わせる」ことを強制する雰囲気がある、ということでしょう。
実際のところ、周囲の状況を見てそれに合わせた言動をする、という行為自体は、
物事を円滑に進めるためには有効な手段であると考えられます。
周囲との衝突がなく、ロスが発生することもない、ということは、
機能性という意味では極めて優れているとさえ言えます。
しかし、その「空気」を読み、行動するのは機械ではありません。人間です。
当たり前のことですが、全ての人が同じ価値観を持って生きているわけではありません。
全く同じ行動をするにしても、それをどう思うか、どう感じるか、というものは
人によりけりです。
ですが「空気を読む」という行為は、その「価値観」の差異を無視することになります。
個人の価値観よりも全体の和を重要視する、ということです。
この事のメリットは、前述したとおり「機能性」に他なりません。
物事が円滑に行われるのと同時に、表面上の人間関係の構築に役立つのです。
逆にデメリットは、「価値観の損傷」です。
無理に周囲に合わせると言う行為、これは少なからず個人の内面に損傷を与えます。
現実に、新聞の投書など様々なメディアから、(主に)中高生の『「空気を読む」事が辛い』
という意見を見ることが出来ます。
メリットとデメリットを見比べたうえで、どちらをとるのかを決めるのは、当然自分です。
「なぜベストを尽くさないのか」で述べたとおり、「快」と「不快」の計算を行った上で、
それを判断するはずなのです。
では、その判断の結果はいかなるものなのでしょうか。
KYという言葉が流行った背景からは、『「空気を読むべき」という「空気」』が、
「個人の価値観の保護」を上回っている、という現状が読み取れます。
つまり、「空気を読む」ことがマジョリティとなっているのです。
マジョリティは正義です。「負け犬は正義を語れない」で述べました。
しかし、「正義」が必ずしも、個人にとって「快」であるとは限りません。
マジョリティであることは楽かもしれません。
しかしその代償に、価値観において「不快」を感じてしまうことがあります。
そういった「不快」を感じながらもマジョリティに頭を垂れている方、
それでいいのでしょうか。もう一度考え直してみてもいいと私は思います。
私はマイノリティであっても「己の正義」を貫くと決めています。
その立場から、悩める方達に私は言いたい。
「空気など読むな」

