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このブログについて

こんなブログに行きあたった奇特な方、はじめまして。

このブログでは、私がこれまで人生を歩んできた中で感じたこと、思ったことを
格言風?にまとめてみようと思っています。


といっても、うまい格言など、この期に及んで私完全オリジナルのものは生み出せません。
なので色んなところ(といっても限定的だと思いますが)から拝借する言葉も多々あると
思いますが、それが自分の人生の中で当てはまるものであれば、紹介しようと思っています。

内容としては、基本的にネガティブな話ばかりになると思います、多分。
人生に疲れている方、希望も糞もない方などには共感していただけることもあるかもしれません。
人生が充実している方、希望が少しでもある方には反発を受けるかもしれません。

ですが、全てはただ一人の人間の戯言です。あまり考えずに読んでいただければ幸いです。

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明日は昨日の風が吹く

「明日は昨日の風が吹く」

元ネタは映画「風と共に去りぬ」のヒロインである
スカーレット・オハラ氏のセリフ「明日は明日の風が吹く」より。

元ネタの基本的な意味とは「明日になればまた状況も変わってくる。
だったらくよくよ先のことを思いわずらっても仕方がない」と楽観的にいう言葉です。

一般的に処世術としては、楽観的なほうが悲観的なものより
得しやすい、もしくは楽である、ということは言えるかと思います。

しかしもちろん全ての場面において楽観的であったほうがいいかといえば
そうではなく、悲観的とは言わずとも、危機感を持って物事に取り組んだほうが
良い場合も多々あります。

その使い分けが重要なのですが、実際問題として
果たして物事を楽観的に捉える事が可能かどうか、ということがあります。

「明日になればまた状況も変わってくる」というのは決して間違いでは
ないと思いますが、「変わった先の状況」は所詮「今日」そして「昨日」を
通過したうえでの産物であり、何もないところから「明日」がやってくるわけではない

という現実があるからです。

人生とは生まれてからの積み重ねであり、その積み重ねを無視し、何の脈絡もなく
新しい局面に放り出されることなどありえません。


地震のような天変地異でさえも、現代の科学で捉えられない「何か」が積み重なって
起こる事態であって、その前触れを感知できないだけに過ぎず、
日々の積み重ねの結果によるものだといえます。

このことは、もっと日常的な身の回の出来事においても同様で、
例え感知できていなくとも、「明日起こる何か」は既に「今日」そして「昨日」から
連なっているものだといえるのです。


悲観せざるを得ない「昨日」そして「今日」があったにもかかわらず、
「明日」を楽観視できる、これが本当にできる人は素晴らしい才能の持ち主だと思えます。

しかし現実はそれほど温くなく、現実を見れば見るほど楽観的な「明日」は
ないものだと認識できてしまうのです。

「明日は明日の風が吹く」というのは一つの現実逃避としては完成されています。
しかし現実には「明日は昨日の風が吹く」のです。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

ひとつ嘘をつくと、20の別の嘘をつかなければならなくなる

ひとつ嘘をつくと、20の別の嘘をつかなければならなくなる

「ガリヴァー旅行記」の著者として有名なジョナサン・スウィフト氏の言葉より。

「嘘」、これは単純に見えて非常に難しい問題でもあります。
一言で嘘といっても、悪意のある嘘、善意からの嘘、嘘だと思ってない嘘、
事実だったのに嘘になってしまった嘘、等など様々なパターンが考えられるからです。

さらに問題をややこしくするのは、嘘をついた本人はよかれと思ってついた嘘でも、
受け手にとっては悪意のある嘘だと取れてしまうなど、発信者と受信者で
その意味を取り違える
、ということが往々にしてある、ということでしょう。

もちろん、こういった言葉の意味の背景の取り違えというものは、
嘘に限らずコミュニケーションにおいては多々起きる現象であり、
社会生活を営む上で不可避な問題であるともいえます。

その中であえて「嘘」におけるコミュニケーション齟齬が問題である、とするのは、
善意と悪意の問題が明確化しやすい、ということがあるからです。

単純に「嘘」と言えば「嘘つきは泥棒の始まり」なんて言葉があるように、
決していい意味ではないと考えがちです。

しかし、相手を思っての嘘というものもあります。
例えば病気で入院しており、明らかに体調が悪化してきている患者に看護士が
「今日は顔色がいいですね」などという場合は決して悪い嘘だと思えませんし、
言われた患者側も、よほどひねくれてなければ嘘だとわかっていても
それは善意からのものであるととれるものです。

いい嘘、悪い嘘、そう言いきれるものはまだいいのです。
問題はやはりコミュニケーション齟齬を生み出す嘘でしょう。

例えば新しく誰かと会い、「また会いましょう」と言って別れた場合、
一方は社交辞令だと思って使い、もう一方は本当に会うつもりで
そう言った、という場合があります。

社交辞令側は本気側からの「いつ会えますか?」に対し、
本当は会うつもりがないのだから「最近忙しくて」などと嘘を
つかざるを得なくなります。

そのまま会えない状態が続けば本気側からみれば社交辞令側は
嘘をついたものだと思い、傷付くことになります。
同時に社交辞令側も決していい気持ちではなくなるでしょう。

これは社交辞令という文化が根幹にある例ですが、
これに限らず、よかれと思った嘘が相手にとっては嘘となり、
「なぜ本当のことを言ってくれないのか」と責められる、
という形で「嘘をついたという事実」が問題になる場合もあります。

いずれにせよ「嘘」は非常にナイーブな問題で、難解なものになります。
一つ嘘をつくと20の嘘をつく必要があるかどうか、まではわかりません。

ただ、紛らわしい嘘はつくべきではないと思います。
それが自分の善意からの嘘だとはっきりわかり、相手に伝わるような嘘以外は
やめたほうがいい
、というのが私の考えです。
それが相手に伝わるかどうか、という問題も残りますが、
少なくとも極力嘘をつかないという姿勢は持つべきなのではないでしょうか。

社交辞令や綺麗ごとが蔓延る現代日本社会。
それでうまく回る場面もあるのは確かでしょうが、
それが人々を苦しめることもあるのが実情です。

もう、つまらない嘘をつくのはやめませんか。
私はやめます。例え他の誰も賛同してくれずとも。

テーマ : 哲学/倫理学
ジャンル : 学問・文化・芸術

約束を守る最上の方法は、決して約束しないことだ

約束を守る最上の方法は、決して約束しないことだ

フランスの皇帝、ナポレオン・ボナパルト氏の名言。

これは「約束」に限らずとも
「『何か』をしない限りはそれについての『失敗』は絶対にしない」
言うこともできます。

失敗をしないためには何も行動をしなければいい、ということで、
これはこれで筋が通っています。もっとも、場合によっては
「何もしない」という選択自体が失敗につながるケースもあるのですが。

と、ここまで言っておいてなんですが、今回はそこではなく
「約束」という言葉について考えたいと思います。

約束は人が社会生活を営む上で必要不可欠なものです。
待ち合わせ然り、モノの取引然り、意思の統一然り。

そして一般的に約束は守るものだとされています。
これを破るものは、たとえ法律触れていなくとも
社会的なルールに抵触したものとされるものです。


もちろん、約束は些細なものから莫大ものまで多岐にわたり、
その重さ・大きさによって破られたときの反動は異なります。

しかし、その重さ・大きさ如何にかかわらず、
破ることはタブーとされるのです。

ですが、そのタブーを破る人間がいるのが現実です。
破る理由は人それぞれ、あるいは場合によって、ということになりますが、
いずれにせよ約束を破った側の道理にはかなっているから破るのでしょう。

しかしその道理は、約束を破られた側の道理と合致しない場合
往々にしてあります。

物理的・理論的に不可能になってしまった場合においては
道理は合致する場合がほとんどだと思いますが、
そうではない場合、それは価値観の違いの問題になってきます。
さらには、約束を守るということをそもそも重要視しない人間もいるでしょう。

「約束は守って当たり前」と考える側からすれば「良心」に欠ける
という批判も可能ですが、そもそも「良心」というものの存在自体が曖昧です。

世の中には「サイコパス」(wikipediaよりどうぞ)という人々がいるそうです。
この人々についての定義は心理学や精神学に譲るとして、
誰にでも共通していると思われがちの「良心」という価値観自体が
マジョリティと異なる人間は確実にいるのです。

要するに、サイコパスと定義できる人間に限らず、
誰にとっても確実に共通の認識となる「良心」など存在しないとも言えるのです。

さらにここから「他人の価値観など理解できるわけがない」と言えてしまいます。
そもそもの大前提として考えられる「良心」がズレているのですから。

ここをどう合わせていくか、が人間関係上重要なことなのであり、
難しい問題でもあるのでしょう。

サイコパスかどうかはともかく、
「良心」の存在が疑わしい人間、恐ろしく思いますが、
意外と身近にいるものだとも感じませんか?

テーマ : 哲学/倫理学
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カッコイイとは、どういうことだ?

「カッコイイとは、どういうことだ?」

スタジオジブリの映画「紅の豚」の
キャッチコピー「カッコイイとは、こういうことさ。」より。

「カッコイイ」ってなんでしょう?

世間で言う「イケメン」とされる人たちはよくこう呼ばれます。
(上記条件を踏まえたうえで)クールといわれる性格の人も呼ばれます。
自分の信念を貫き、かつ人様に迷惑をかけない生き方をしている人も
こう呼ばれることがあります。

他にもいくつか事例はあると思いますが、要するに褒め言葉であるわけです。
しかし、何を「カッコイイ」とするか、
には当然人によるバラつきがあると考えられます。

私個人で言えば誰か個人を「カッコイイ」と思ったことは一度もありません。
ですが子供のころ、戦隊ヒーロー等に対しそういった感覚を持っていたような
記憶はあります。

その感覚から浮かぶ「カッコイイ」とは憧憬であると同時に、
畏怖をも内包する言葉
のように感じます。

決して手が届かない存在であり、その存在に近づくこと自体に
恐れ多さを感じる、そんな感覚です。

この感覚からいえば、たとえば女性にモテるために
男性が自ら「カッコイイ」を目指すということは
馬鹿げているようにも考えられます。

しかしその「カッコイイ」の基準が私の思うものと異なるのであれば、
それは決して馬鹿げているものでもないのかもしれません。


人によりその感覚・幅の異なる言語をいかに理解し、使用するか
これは社会活動において極めて重要であると考えられます。

他人の価値観・感覚を理解することは不可能です。
これは「他人の気持ちを考えても無駄」で述べました。
しかし、他者がその言葉に対し自分とは同じ価値観を持っているのか否か、
これを知ることだけならできるかもしれません。

マイノリティの価値観を持ち合わせてしまった場合、
それを変化させ、マジョリティに合わせることは非常に難しいですし、
無理にやろうとするべきものではないでしょう。

しかし、その価値観がマジョリティとズレている、ということを
認識しようとすることだけはやっておいて損はない
のではないでしょうか。
価値観のギャップに苦しみ続けるよりは、
そのほうが幾分かは楽に生きられるような気がします。

なんなら、いっそこう聞いてみればいいんです。
「カッコイイとは、どういうことだ?」

テーマ : 哲学/倫理学
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